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遼寧省

小説「坂の上の雲」の舞台 ~旅順~

旅順は遼東半島の最南端、大連市から西へ25キロの場所にあり、人口約20万人の港湾町です。日露戦争の激戦地として知られているため、日本では映画や小説の舞台にもなりましたが、中国の軍事要塞地帯となっているため、2009年までは未開放都市として一般的には訪れることの出来ない場所でした。今回は、そんな歴史を垣間見れる観光地をご案内いたします。

203高地 - HP日露戦争中の旅順西部最激戦地「203高地」の頂上からは旅順港の全体を見渡すことができるため、占領した日本軍は重砲観測所を設け、旅順港にいるロシア艦隊を撃沈しました。ここは多くの犠牲が出た場所だったこともあり、戦後、落ちていた弾丸と薬莢を鋳造し、高さ10.3mの砲弾型記念碑が建てられました。碑の正面に書かれている「爾霊山(なんじのたましいのやま)」という字は、乃木大将の揮毫によるものです。

戦争時、帝政ロシアの旅順東側の重要な陸防御線となっていた「東鶏冠山堡塁」の敷地内には、士官室や兵舎・食堂・弾薬庫など当時の建物がそのまま残されており、砲弾・銃弾の弾痕が当時の戦いの激しさを物語っています。1904年8月21日の終戦以後、1916年に山口県から運んできた青い御影石を使い記念碑が建てられました。西側には日露戦争陳列館があり「戦前の日露論争」、「日露戦争の旅順水上の戦い」、「日露戦争の旅順陸戦」など、戦争の様子を紹介しています。

日露戦争終了後の1905年1月5日、乃木大将とステッセル将軍が降伏調印を結んだ「水師営会見所」は元々劉という農民の家であり、現在は復元されています。庭には水師営会見碑が置かれ、、ステッセル将軍が会談後、乃木希典に贈ったことで知られる白馬を繋いだという棗の木もあります。2010112165626951

白玉山頂ある蝋燭のような形をした「白玉山塔」は日露戦争終結後、日本海軍大将東郷平八郎と陸軍大将乃木希典の提案で建てた「表忠塔」のことで、塔の基盤には乃木希典の故郷である山口県徳山から運んできた花崗岩が使われています。高さ66.8m、塔内にはアメリカにわざわざ注文し製造した24階の旋転階段と、21個の窓が設けられています。1985年に旅順口区政府は山の名前に基づき「白玉山塔」と改称、現在は日本軍国主義者と帝政ロシアが中国を侵略した証拠として保存されています。

市級文物保護単位に指定されている「旅順駅」は、麦わら帽子のような楕円形の屋根、羽毛のような細かさで嵌め込まれた小さなタイル、精巧な細部の彫刻、ロシアスタイルの白い壁、緑の窓など異国情緒を感じさせる建築物です1898年、旅順と大連を借りうけた帝政ロシアが、軍港を拡張し旅順駅鉄道を敷設、占領時代の南満州鉄道支線の終点でした。1903年から運行を始めましたが、軍港の真正面に位置するため、昔は外国人立ち入り禁止となっていました。現在、旅順から大連まで列車が通っていますが、1日2往復、片道2時間もかかります。

年間見学者が20万人にも上る「旅順博物館」は1917年関東都督府によって「関東州満蒙物産館」として創設され、1954年に「旅順歴史博物館」と命名されました。博物館が収蔵する文物及び資料は1級秘蔵品45件を含む3万件余りで、青銅、書物と画、陶器、竹と石の彫刻、中国古代貨幣、仏教像と大連文物、新彊文物など、展出する文物が3,000件近くあります。大谷探検隊が新疆から運んできた1300年前のミイラも博物館に陳列されています。 ※大谷探検隊:1902(明治35)年、浄土真宗の大谷光瑞師(第22代鏡如上人)により組織された仏跡調査を目的とした探検隊。

日露戦争で日本軍が遼陽に設置した関東総督府を、1906年には旅順へ移し「関東都督府」と改称し陸軍部を設けましたが、都督府が無くなったのを機に、陸軍部は関東軍司令部と関東軍旧蹟博物館なりました。1932年、旧満州国が長春に成立された際、関東軍司令部も長春へ移転したため、旅順にある「旧関東軍司令部」の建物は、現在、室内に写真などが展示され開放されています。

日本との関わりが深い土地、旅順。今現在も軍港都市として立ち入りを制限されている場所はありますが、歴史的にも有名な戦争の遺産を訪ねてまわる感慨深いご旅行を、是非とも体験されてはいかがでしょうか。