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北海の真珠 大連・旅順

CIMG5616-1■大連概要

遼寧省の南部に位置する地級市(地区クラスの市)。経済的重要性から省クラスの自主権をもつ副省級市にも指定されています。 市区人口は211万、都市圏人口は350万人に及び、遼寧省では省都の瀋陽市に次ぐ大都市です。

大連気温と降水量表

 

 

 

 

大連気温と降水量

 

 

 

 

 

 

■中山広場

大連中山広場大連市東部の中山区に位置する直径213メートルの大連の中心的な広場です。帝政ロシアが統治する時期に建設され、ニコライェフスカヤ広場と命名され、日本統治時代には、大広場と改名されました。1908年から1935年まで日本人などの広場の周辺は続々と10基のルネッサンス様式やゴシック様式などのシンボル的な建築物が建てられています。現在では、大連中山広場近代建築群と呼ばれ、2001年中国の全国重点文物保護単位に指定され、近現代重要史跡及代表建築に分類されました。

■旧ロシア街

大連ロシア人街大連駅から路面電車の線路に沿って東北に進み勝利橋を渡った場所が旧ロシア人街です。1898年ロシアは遼東半島南部を99年間の期限で租借し、「遠方」という意味の「ダリーニ」と名付け、大連の都市構造の基本は作りました。このためここでは新旧のロシア風建物を多く見ることが出来ます。またロシア民芸品やロシア軍放出品などを置く土産物店も多く見られます。

 

 

■旧日本街

旧日本街大連湾を望む南山の麓に建設された旧日本人住宅と、アカシアの並木が残る風情ある一帯です。今は高級住宅街として開発が進められています。

 

 

 

 

■星海広場

星海広場3大連市にある広場で総面積110万平方m。広場としてはアジア最大面積を誇ります。中心広場面積は、4.5万平方m。広場内園直径199.9m、外円直径239.9m。円形を中心として放射状に道が伸びており、海に隣接しています。
星海湾を埋め立て、一時ゴミ捨て場になっていたところに大連市の100年記念として1997年6月30日に完成しました。広場は星海湾を南に臨んで、北側は会議・展示センター(星海国際会展中心)で、広場中央まで500mあります。広場の上に高い19.97mの巨大なシンボル塔「漢白玉華表」が建っています。中心の地面は999個の四川紅大理石を敷いて、干支、24節気と12の生まれ年が刻んであります。周囲は大きな芝生の緑地で、音楽が流れる大規模な噴水があります。遊園地もあり、広場の西側に大連世界博覧広場とレストラン街も建設されています。近年、広場周囲には高級マンションが立ち並んでいます。約800mのビーチがアーチ状に延び、水族館「聖亜海洋世界」や遊覧船も楽しめます。

■勝利広場地下商店街

勝利広場勝利広場は大連駅前の青泥窪橋に位置しする、ショッピング、娯楽、飲食店などが揃う地下商店街です。2000年にオープン以来、地元の若者に人気のスポットになっています。勝利広場の地下は3階になっていて、衣服や靴、装飾品、土産物、書店、料理店などたくさんのお店が集まっており、若者の姿を多く見られます。

 

 

 

■旅順

大連市に位置する市轄区で、遼東半島の最西部(突端部)に位置しています。天然の良港として知られており、かつては軍港都市でした。現在は大連市に編入されています。

■203高地

2010112165626951203高地の元々の名前は猿石山であり、日露戦争における最激戦地です。海抜206m、軍事地図の中で203番なので、「203高地」と呼ばれています、戦争前の海抜は206mで、戦争により3M削られ203mになったという説もあります。命名されました。203高地はロシア軍後方防衛線の西側の最高陣地であり、この山の頂上から旅順港の全体が見えます。
1904年11月27日、日本軍は203高地総攻撃を開始、10日間の激戦を経って、12月6日に203高地を占領しました。また、ここを占領した日本軍は重砲観測所を設けて、大砲を指示し、旅順港にいるロシア艦隊を撃沈しました。日ロ双方とも多くの犠牲がでて、日本側だけで1万7千名の死傷者が出ました。乃木大将の次男、乃木保典もここで戦死しました。戦後この地に砲弾型の記念碑が建てられました。

 

■水師営会見所

水師営会見所3水師営会見所記念写真日露戦争が終了した1905年1月5日、乃木大将とステッセル将軍が水師営にてロシアの降伏調印を結びました。ここの家はもともと劉という農民の家でした。現在の水師営会見所は、復元されたものです。内部の左側の部屋は乃木希典とステッセルらが会見行った部屋で会見時の写真も展示されています。

 

 

 

 

 

 

 

■旅順博物館

旅順博物館2旅順博物館は帝政ロシア時代に「将校クラブ」でした。1917年に関東都督府によって「関東州満蒙物産館」がとして創設されました、そして1954年に「旅順歴史博物館」と命名されました。敷地面積は25000平米、建築面積は6000平米です。博物館が収蔵する文物及び資料は3万件余り、中には1級秘蔵品が45件あり、青銅、書物と画、陶器、竹と石の彫刻、中国古代の貨幣(かへい)、仏教像と大連文物、新彊文物などがあり、展出する文物が3000件近くあります。そして毎年接待する見学者は20万人上ります。1988年から、旅順博物館は何度も日本で展示会を開いています。1300年前のミイラも博物館に陳列されています。ミイラは大谷探検隊が西部の新疆から運んできました。大谷探検隊とは、1902(明治35)年、浄土真宗の大谷光瑞師(第22代鏡如上人)により実施された仏跡調査を目的とする探検隊です。