敦煌発展の歴史
5000年以上の昔から、ユーラシア大陸を横断し東西文明が交流し融合の舞台となった大交易ルート「シルクロード(絲綢之路)」。その魅惑的な名前とは対照的に、このルートは、広大な砂漠や大山脈の峰々など荒れ果て乾燥した大地が支配する未開の地であり、往来するキャラバン隊を阻む厳しく過酷な道のりでした。古代から「財」という「夢」に魅せられた多くの人々がこの路を行き来し、「夢」は同時に「挫折」と「死」」が常に隣り合わせの危険な冒険の旅でした。 シルクロード東の起点・中国側の出発地である西安から蘭州を経由する「河西回廊」と言われるルートで最初に到着するオアシス都市・敦煌。シルクロードはこの地を基点に、トルファンからウルムチへ向かう「天山北路」、同じくトルファンで分岐しカシュガルへと向かう「天山南路」、玉門関や陽関を経てタクラマカン砂漠を抜けカシュガルへ向かう「西域南道」の3ルートに分岐していました。季節や天候などの条件に応じてキャラバン隊は3つルートから最も好ましいルートを選んでいたとされています。 シルクロードがもたらす莫大な富と利権を巡り、これらを保持し続けようとするオアシス都市国家、一手に掌握しようとする強大な中華帝国、利権を奪おうと来襲する遊牧民族の攻防の歴史が繰り広げられていました。 敦煌は、ジアとヨーロッパとを結ぶ東西交通網の要衝の地であり、時には中国の玄関口の都市として、また時には独立を保ち、時には異民族の支配も経験しながら攻防の歴史の中で盛衰を繰り返してきました。 かつては「沙州」と呼ばれていたこの地は、東西交易の要衝と軍事拠点によって「大きく(敦)栄える(煌)」という名前に由来する「敦煌」と呼ばれるようになったと言われています。
敦煌莫高窟
インドで興った仏教は、シルクロードを経て徐々にオアシス都市や遊牧民族に浸透し、東漸し中国にもたらされてきたことは広く知られています。シルクロードの往来は、点在するオアシス都市に宗教文化・芸術をもたらし独特の文化を育むことになったのです。敦煌も先進先端の仏教センターのひとつとしての役割も持つようになり、早くから仏教の修行僧が多く仏教信仰が盛んでした。オアシス都市では、四世紀頃から禅の修行道場としての石窟が数多く作られるようになり、敦煌でも366年に楽僔という僧侶が東からやって来て莫高窟の開創を始めたことを契機に500もの窟が作られたとの記録が「莫高窟記」などに残されています。楽僔が、夕陽を浴びて金色に輝く三危山に千仏の威厳を感じ、向かい側の鳴沙山の窟に石窟を掘ったと言い伝えられています。 その後も時の為政者や有力者からの経済的援助も受けながら、14世紀の元代まで10王朝約1000年にわたり掘り継がれ、南北1.8キロに渡り1000以上の窟が今日に残されています。現在発掘されているのは、そのうちわずか492窟ですが、それでも45000㎡に及ぶ壁画と2400体を超える仏像が残されています。 窟内の仏教壁画は、石窟を掘ったあとに壁面や天井を漆喰で塗り固め、顔料を使ってそこに仏画を描いたものです。釈迦の前世の物語「本生譚」を筆頭に古代の神話伝説を含む豊穣な世界が展開されており、いずれも開窟された時代背景を大きく反映した内容になっています。 石窟群の中に収められている仏像は、初期のものはギリシア色や遊牧民族色が強く、顔つきが濃かったり、特別な脚の組み方をしています。時代が下がるに従ってそうした多彩さはなくなり、柔らかく、落ち着いた造形になります。 1900年に、王道士が第16窟奥で、土砂に隠された第17窟を発見しました。そこから一説では45,000点といわれる経典や写本、仏画、公文書、私文書など中央アジア研究の学術的価値が非常に高い文書が見つかり敦煌文書と名づけられました。これらの多くは海外に持ち出されたのち、敦煌学という学問が成立するきっかけになっています。 敦煌莫高窟は、現存する世界最大規模の仏教遺跡として、1987年に「莫高窟」の名で世界文化遺産に登録されました。世界文化遺産は、6つある登録基準のうち、少なくともひとつを満たすことが条件ですが、「莫高窟」は6つの登録基準全てを満たしており、「ベネチアとその潟」「泰山」と並んで「キング・オブ・世界遺産」とも称されています。
莫高窟観光
莫高窟は、莫高窟案内人に従って見学します。写真撮影は厳禁となっており、カメラや荷物は入口で預けることになっています。窟内は暗いため懐中電灯などを持参されることをお勧めします。 世界遺産に登録されている石窟の数は492。時代別に分けると、五胡十六国9、北魏23、西魏2、隋97、唐225、五代十国34、宋70、西夏25、元7となりますが、366年の開窟当時のものは残っておらず、現存する最古の石窟は5世紀はじめ、五胡十国時代のものと見られています。 自由に見学できるのは主だった石窟だけで、あとは合い鍵を持ったガイド引率によるツアーとなります。 代表的な窟をいくつかご紹介しましょう。 現存する窟の中では初期にあたる5~6世紀の北魏時代の窟である257窟。西側の壁には釈迦の前世の物語のひとつ「九色鹿本生」が描かれています。「インダス川の辺りに棲む九色の鹿が溺れる男性を救いましたが、男は鹿の皮を欲しがる王にその居所を知らせてしまいます。ところが鹿は弓で射られる寸前に王に事実を話し、その事実に心を打たれた王が以後鹿や仲間を捕らえないこと誓った」という物語で九色の鹿が釈迦の前世となっています。 6世紀の西魏時代の窟で天井壁画が素晴らしい249窟。仏教説話だけでなく中国古代の神話伝説がテーマとなり、崑崙山(こんろんさん)のかなたの火の山に住むという西王母などの神々も描かれています。 同じく西魏時代の窟で、インド様式の影響を色濃く受けている285窟。天井には伏羲や女禍といった古代伝説の神が描かれ神話の世界が自由奔放な筆致と渋い色彩で表されています。 隋唐の窟で、南壁には「樹下説法図」が描かれ、弥勒菩薩の美しさは莫高窟壁画の中でも随一と言われています。莫高窟のシンボルとしてガイドブックなどにも載っている9層の屋根をもつ建物が96窟です。この洞窟は非常に高さがあり、中には高さ35メートルを超える大きな弥勒菩薩の座像が鎮座しています。これは楽山、栄県に続く、3つめに大きな仏像です。唐の時代888年の開窟であり、当時の皇帝・則天武后は自身を弥勒菩薩の生まれ変わりと称しており弥勒菩薩がブームとなっていたこともあり、96窟の弥勒菩薩は女性的な雰囲気が漂っています。 敦煌観光の素晴らしさは莫高窟に留まりません。砂漠のオアシス都市・敦煌ならではの人気観光地をご紹介いたしましょう。
鳴沙山と月牙泉
敦煌市の市街から南5kmにある広大な砂山・鳴沙山。かつては「神沙山」と呼ばれていましたが、風が吹くと管弦楽器のような音を奏でるため「鳴沙山」と呼ばれるようになりました。実際『史記』には、「天気がいいときは、音楽を奏でているようだ」と記載されています。 月牙泉は、鳴沙山の北側の麓にある、荒寥とした砂漠の中のオアシスで、東西200m、南北50mほどの三日月型をしていることから「月牙泉」と名づけられました。(「月牙」は中国語で「三日月」という意味)。以前は今の約5倍の大きさだったといい、約2000年という時を刻みながら、絶えることなく湧き続けていると言われています。古来神仙が住む場所として寺院が建てられており、今も仏教寺院が隣接しており、不思議な空気を醸し出しています。 世界の砂漠の多くは、岩石砂漠や礫砂漠で、デューン(巨大な砂丘)が見られる場所は多くありません。鳴沙山付近にはたくさんのデューンがあり、すべて砂が堆積してできたものです。東西約40km、南北約20kmあり、山峰は険しく、最高峰は250mです。山腹に水波状の砂紋があり、昼夜の温度差が激しく、日中は砂が熱くて登ることはできません。このため、市内からのツアーは日没に合わせて組まれています。夕焼けの中、黄金色に輝く砂漠の姿は、昼夜とはまったく異なる幻想的な美しさを見せてくれます。ラクダに乗って鳴沙山の麓まで行き「月の砂漠」の雰囲気を堪能できます。
玉門関
敦煌市の北西約90kmに位置する、かつて建設されたシルクロードの重要な堅固な関所のひとつであり、漢と唐の時代2度に渡り建立されました。現存する玉門関遺跡は唐代のものです。漢代に武帝が河西回廊を防衛する目的で長城をこの地域に建設し、紀元前108年から107年にその最西端に建造されたとされています。その後六朝時代には交通の要綱として栄え、唐代に再建された際は安西の東側に建設されました。同じく南西に設置された陽関とともに、西域交通で北ルートを通ると玉門関、南ルートでは陽関を通過していました。宋代になり西域交通が衰えるとともに衰退しました。
陽関
敦煌から西に約70kmの位置にある関。西の遊牧民族に睨みを利かせるため武帝が玉門関とともに建てたものです。北の玉門関に対して南の関所はこの陽関です。玉門関との間に5km毎に烽火台を置いていたといわれています。現在残っているのは烽火台のみで、陽関博物館が併設されています。
敦煌博物館
2012年5月に移転リニューアルオープンした敦煌博物館では、シルクロードの要衝として多くの人々が行き交った敦煌で発掘されたた数多くの貴重な出土品を展示しています。莫高窟の第17窟で発見された経典を記した巻物や書画はお勧めです。漢代から現代までの敦煌の歴史を学ぶことができます
おすすめホテル・敦煌山荘
敦煌は世界各地からの観光客が訪れる観光都市で数多くのホテルがありますが、敦煌らしさを表しているのは敦煌山荘です。周囲の景色に溶け込むように建つ中国スタイルの屋根付建物は古代建築を模しており落ち着いた外観のホテルです。ホテル内部にはレンガの床や木の天井などで砂漠の雰囲気を醸し出しています。市街地からは離れていますが、鳴沙山まで徒歩15分の砂漠地帯に位置しており、ホテル屋上にあるカフェ、レストランからは鳴沙山の姿が一望できる贅沢な立地です。